興味はないのに興味がある話
佐村河内氏の「あの出来事」以降を描いた「FAKE」という映画を見てきた。
最初の感想は、「単価がやたら高い会社は、打ち合わせにやってきた半分の人がやっぱり一言もしゃべらないな」で、その次の感想は、「テレビ局や週刊誌のやってることは、伝統的に”炎上”だなぁ」というものだった。
FAKEに登場するテレビ局・週刊誌それぞれの番組や紙面で取り上げられた関心事は、「嘘をついていたのか、ついてなかったのか」「耳が聞こえるのか、聞こえないのか」のように、白黒はっきりさせようとすることのように思えた。
これは、事情を知らない人にとってはわかりやすそうだ。「細かいことはいいから、どっち?!早く教えてくれ!」という気持ちはわかる。いちいち事情を気にしてるほど暇じゃあない。
そういえば最近、こういう記事が出ていた。
多くの人は、見出しだけ見て中身は読んでない。何の話かよく知らないけど、誰かに言いたい。
自分がコメントできるキーワードに反応し、何が起きてるのかではなく、そのキーワードを聞いて連想したことを言いたいらしい。
いろんな人が暮らしている世の中において、いろんな人の共通項になり得るのは法やモラルだろう。そしてその分野で境界線上にあることは、それぞれOKかNGか言いやすいネタだ。その出来事の本質には興味がない。でも、これについて思い出したことをあーだこーだ言いたいし、みんながなんて言うのかにも興味がある。そういうネタなのだ。
改めて、テレビや週刊誌で扱っていることを思い出してみる。もちろん「真実※をあきらかにするのだ!」という建前に沿ったものもあるのだろう。(※真実って何?というのはあるとして)
しかし、よく目にするのはやはり「法やモラルに関する、自分たちがOKかNGか言いやすいネタ」だろう。
多くの人の共通項だからこそ、視聴率をあげることが期待できるし、部数を多く発行することができる。そうでなければ、赤字になって企業が継続できない。
SNSなどでの炎上と、テレビや週刊誌などがやっていることは、根本的に同じことだ。だからこそ問題行動を起こした学生のいる学校に電凸するし、病気の家族を抱える人のところにも当人がやめてくれと言っても突撃する。
これを止めるには、何も知ることなく「え?○○なんじゃないの?アホらし。」と言うよりも、問題になっている本質を理解するための労力の方が小さくなるしかないのじゃないかと、ちょっと悲観してみる。
FAKEを見た後、勢いに乗ってオウム真理教の一連の騒動を記録した、同じ森監督の『A』という映画を見た。それで色々と思いを強くしたり、自分を戒めたり。